毎日Enjoyトマト!!福とまとの中の人(Tw:@fukutomatotw/IG:@fuku.tomato)です★
前回の記事ではイタリアで怪しいと印象つけられていたトマトが食材として受け入れられた過程にフォーカスを当てたお話をいたしました。
トマトと言えばイタリア!と答える方も多いと思いますがまさにその通りで、イタリアでのトマト史を語るには前回の記事のみでは収まりきりませんでした。
ですので、今回の記事でもイタリアのお話になります。
今回の記事では、イタリアでトマトを取り入れた食卓がどのように発展していったのかをお話していこうと思います。
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次々に編み出されるトマトレシピ

トマトが”食材”として認められてからは、イタリアの食卓でトマトを食べる習慣が広まるのは早く、当時の医師もトマトを食べる事を推奨していたと言われています。
18世紀ごろには、トマトを使った料理レシピが次々と考案されていきます。
ナポリ在住の料理人ヴィンチェンツォ・コラードが「Il Cuoco Galante(粋な料理人)」というレシピ本には数々のトマト料理が掲載されていました。
この本が修道会※1 の間で人気になりトマト料理がどんどん取り入れられ、よりトマト料理が家庭に浸透していきます。
イタリア統一と共に歩んだトマト
19世紀ごろにはトマトの人気に加え、栽培に非常に適した気候であったためにトマトが大量に栽培されるようになり、安価で手に入れられるようになっていました。
ローマやナポリ近郊は一面トマト畑となり、食卓には頻繁にトマトが並ぶようになったと言われています。
また当時のイタリアは統一されておらず複数の国に分かれていましたが、イタリア統一運動を経て1861年頃にイタリア王国が建国されました。
イタリアの統一と共にトマトの普及が同時に進んでいったと行った形となり、トマトがイタリアの国民的食材となったと言っても過言ではないと思います。
トマトの保存方法
大規模に栽培されるようになり一般的な食材と昇格したトマトですが、問題となったのは保存方法です。トマトは生ものなので当然長期保存ができませんよね。
トマトが大量生産されるようになって、それと同時に保存方法も編み出されていきました。
ドライトマト
1868年ごろには、イタリアのシチリア島ではドライトマトにしていたようです。
天日干しにして作るドライトマトは数か月の長期保存が可能なうえ比較的簡単な加工であったため、シチリア島を始め、サルデーニャ島などのイタリア南部から徐々に広まっていきました。
トマト缶
1880年代ごろに穀物の価格暴落があり、一層トマトの栽培が注目されました。
この頃のナポリ周辺ではホールトマトの缶詰が流通を始めていました。
更にパルマ周辺では、濃縮果汁、ペースト、ピューレ等の缶詰の生産に注力していたようです。
また、トマト加工会社も設立されておりイギリスやアルゼンチン等の国外にも販売も始まっていました。
この記事のポイントまとめ
この記事では、トマトがイタリアで更に発展していく様子にフォーカスを当ててご紹介いたしました。
今回の記事のポイントを下記にまとめておきましたので情報整理に役立ててください!
- 料理人のヴィンチェンツォ・コラードが「粋な料理人」というトマトを使ったレシピが多数掲載された本を出版。
- 新レシピは修道会から発信される事が多かったが、修道士の間で「粋な料理人」がベストセラーになっていた。
- 19世紀にはトマトが大量栽培により安い価格で手に入るようになり、食卓にトマトが並ぶことは当たり前の光景に。
- ユダヤ人コミュニティの間ではトマトは食材としてよく使われていたり、ナポリのスペイン総督府の給仕長によりトマトスープのレシピが掲載された本が出版されたことを皮切りにトマトが食材として食卓に上って行った。
- イタリア統一された頃にはトマトはイタリア中の食卓に広まっていた。
- ドライトマトやトマト缶などの長期保存できる加工トマトの製造も始まり、国外にも販売していた。
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