イタリアのトマト文化に潜む謎の要素とは?黒魔術とのつながりを解明|トマトの歴史EP3

トマトの歴史
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毎日Enjoyトマト!!福とまとの中の人(Tw:@fukutomatotw/IG:@fuku.tomato)です★

前回の記事ではスペインに広まったトマトがどんな経緯を経て ” 食材 ” として人々に受け入れられていったのかにフォーカスを当てたお話をいたしました。

皆さま、「イタリア料理」と聞くとどんなものを想像しますか?
オリーブオイルやトマトをたくさん使っているイメージを抱く方が多いのではないでしょうか^^

今回の記事では、そんなイタリアでどのようにしてトマトが人々に受け入れられていったのかをお話していこうと思います。

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こわごわと食べられていたトマト

イタリアにトマトがやってきたのは、8世紀後半から15世紀後半まで続いたレコンキスタ(国土回復戦争)によりスペインから追い出されたアラブ人がイタリア南部にトマトを持ち込んだのでは、と言われています。

16世紀の後半ごろ、イタリアでは平和が訪れ始めたこともありヨーロッパで一番の人口密度が高くなるほど人口が増大し、それに伴い食糧不足が問題となっていました。

イタリアの人々は飢えをしのぐためにアメリカからやってきた ” 葉は青臭く、実は真っ赤で奇妙な ” トマトを仕方なく食べていました。

イタリアでも初めからトマトを好んで食生活に取り入れられていた訳ではなかったようで、ほとんどが観賞用として育てられていたようです。

黄金のリンゴと呼ばれたトマト

イタリアの植物学者たちは新世界(別大陸)から来た植物に興味津々でした。
それも当時、疫病や栄養不足で命を落とす人が多かったため優れた薬効をもった薬草を求めていたためかもしれません。

トマトも植物学者たちによって研究の対象となっていました。
一説によると皮膚病を治すための薬草として、肌に擦りこんで使われていた、とも言われています。

イタリアの植物学者の一人、ピエトロ・マッティオリはトマトの事を「黄金のリンゴ」と呼んでいたそうです。
理由としては、当時のトマトは現在のような真っ赤なものが主流ではなく黄色っぽい色だったためとも言われています。

ピエトロ・マッティオリは「トマトはナスと同じように塩と唐辛子で炒めて食べる」と書き残しているとことから、当時からトマトは野菜として食べられていたと思われます。

しかし一方では「食べるのではなく、目で見て楽しみたい果実だ」と述べている植物学者もおり、まだまだ人々の食生活に欠かせない食材にはなっていませんでした。

媚薬?愛のリンゴ?怪しさ満載に!

まだ食材としての人気は獲得できていなかったもののトマトは少しづつ、確実に人々に受け入れられて行っている…と思っていた矢先にトマトに悲劇が起こります。

マイナスイメージが浸透…

当時の植物学者によりトマトは「ナス科」に属されていました。
ナス科の植物には匂いの強い草や毒のある植物があり、恐らく「ナス科」というだけでも敬遠する人は多かったでしょう。

それに加え、植物学者のピエトロ・マッティオリが誤ってトマトをマンドレイク(別名マンドラゴラ)の一種に分類してしまいました。

マンドレイクとは毒がある植物で引き抜くとマンドレイクが叫びをあげてその悲鳴を聞いた者は死んでしまう、というあらぬ噂話が伝えられていました。
また、黒魔術・錬金術などの原料として使われており媚薬(惚れ薬)の効果も持つとされてたようです。

更にトマトにとって不幸な事に、トマトを「愛のリンゴ」と呼んでいた植物学者がいました。

それによってトマトには毒があり、媚薬の効果を持つというイメージが加速してしまいます。
17世紀になっても、進んでトマトを食べる人はあまりいませんでしたが、ただ単に興味があったから・貧しくて他に食べる物がないから等の理由で一部の人には食べられていたようです。

トマトの救世主の登場!

なぜ比較的簡単に大量栽培できるトマトが食卓に欠かせない食材にならないのか?と疑問を書籍に残したり、水分も豊富で身体を冷やす効果もあるトマトをなぜ食べないの?と問題提起する者もいたようです。

また、当時のイタリアでは14世紀~16世紀の時間を経てスペイン系ユダヤ人のコミュニティが広がっていました。
分布はイタリア全土に拡大しており、特にトスカーナ州にあるリボルノという都市で栄えていました。

そしてなんと、ユダヤ人の間ではトマトは食材として頻繁に使われていました。

時を同じくして、ナポリのスペイン総督府の給仕長アントニオ・ラティーニという人物が、トマトスープを紹介した本を出版しました。
出版物としてトマトを使った料理を紹介するものは初めてだったそうで、当時はかなり衝撃があったのではないかと推測します。

それらが皮切りになったのか定かではありませんが、トマトを使った料理が次々と登場するようになります。伝統料理にトマトを加えたものや、様々な食材と組み合わせて使われました。

18世紀にはとある商人によって「トマトはイタリアではよく使われている。」との記録が残っている通り、この頃にはイタリアではトマトはすっかり食材として確立していたと思われます。

この記事のポイントまとめ

この記事では、トマトがイタリアでどのように食材として取り入れるようになっていったのかにフォーカスを当ててご紹介いたしました。

次回の記事ではもっと深く、イタリアでトマトを使った食事が発展していく様子をご紹介したいと思います。

今回の記事のポイントを下記にまとめておきましたので情報整理に役立ててください!

  • 観賞用として育てられている事が一般的であったが、食糧不足により仕方なくトマトを食べていた。
  • 植物学者の間で新世界の植物の研究が盛んになる。トマトは「黄金のリンゴ」とも呼ばれた。
  • 毒を持つ植物が多い「ナス科」という事、トマトがマンドレイクの一種だと誤った情報が伝わりトマトには毒があり媚薬の効果がある、と人々に敬遠されていた。
  • ユダヤ人コミュニティの間ではトマトは食材としてよく使われていたり、ナポリのスペイン総督府の給仕長によりトマトスープのレシピが掲載された本が出版されたことを皮切りにトマトが食材として食卓に上って行った。
\前回の記事はこちらから/

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